2012年11月17日土曜日

無意味に耐える

ワタクシ大槻も、モノ作りを生業として早二十年以上経ってしまいました。あっ!ちゅう間の二十年ですが、人間がなまくらなワタクシが二十年以上も一つのコトに打ち込んで来たなんて驚きです。さして思い入れも無く何となく始めた仕事が一生の仕事に成りつつあるのですから、人間何がどうなるかなんてホンマわかりません。こう言うと今や確信犯的にモノ作りをしている様に思われるかも知れませんが、ナンのナンの未だに悩み多き日々です。最近、知り合いの備前焼の作家先生が、「無意味に耐えられることが、作家としての資質の一つである。」、とフェイスブック上で書いておられましたが、長年ワタクシ自身思い続けてきたことを明確に言葉にしてもらったような思いで拝見していました。少しでも良いモノをと自分なりに努力してきたつもりですが、そんなもんに何ほどの意味があるんや、と思ったりもしていましたし、反面そもそもモノ作りに意味なんか必要無いわい!とも思ったりもしていたのです。ホンマ、エエ歳して悩ましいことです。これからのワタクシのモノ作りは、意味を意識せず、思いのままに、手の動くままに続けなければならないのでしょうか。しかしそういう風に考えること自体、意味を意識していると言えるようにも思いますけどね。はたまた、無意味に耐え、無意味から何かを生み出すことがモノ作りなのでしょうか。考えれば考えるほど訳が解らなくなってしまいます。(いらんこと考えんと、サッサと仕事せーよ!・・・ですよね。)

3 件のコメント:

  1. 大槻先生

    私もいつの間にやら45年間現在の仕事に就いてきました。ひょとしたことがきっかけで自分はこの仕事が向いているのだなと思って(錯覚して)選んだしまったわけですが。私はあまり深いことは考えない方なので、いつの間にやら現在に至ってしまいました。
    定年を過ぎても働けるのはラッキーだと思っています。

    先生が言われる”意味”とは世の中のお役に立っているかということでしょうか、それであれば十分にお役に立っていると思いますよ。
    お客様は作成を依頼して、完成を首を長くして待って、完成したら見て触って喜び、大切に使用するなんて、素晴らしいことと思います。
    私もささやかながら人様のお役に立っていると思います。
    しかし、最近は私は物作りが向いているのではと思ったりしています。木工が楽しいのです。もし、若いころに出会っていればその道に進んだかもと思うのですが、勇気が無くて無理だったかもしれません。その点先生がうらやましいです。

    人間、他の生き物と同じ様に、働いて、食べて生きて行くことに意味があるのではないでしょうか? どのような仕事に就くかは神様の思し召しで、神様が投げたダートが選んだ仕事を天職と思って生きて行けば幸せでは。

    見当違いなことを言ってしまったかもしれません。

    西宮市のSより

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  2. 西宮のSさんいつもコメントありがとうございます。

    モノを作るということは本来、お金に換えることはもちろんのこと、人様のお役に立つこととも全く関係の無いことである、と思います。ただ作りたい、というそれだけの動機で行うものだと思うのです。ですから、モノ作りには作りたいという欲求以外に意味はないし、その他の意味を持たせることはモノ作りの本質から言えば雑念であるのではないかと思うのです。モノを作りたいそれだけでモノを作ることこそ「無意味に耐える」ということであるとワタクシは理解しております。その「無意味に耐えて」作られたモノにこそ意味が生まれるのではないかと思うのです。
    確かに、ワタクシにとってモノ作りは生業でありますのでお客様に喜んでいただいて生活出来ていることはホンマに有り難いことです。喜んでいただけた時、この仕事をやっていてよかった、とホントに思えるのです。しかし、それ以上のモノ作り屋になる為には、「無意味に耐える」ということが必要だと思います。ワタクシに一番欠けているのが正にそのことなのです。

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  3. 大槻先生

    深く考えずにコメントしてしまいまして申し訳ありません。私にはそこまで考えるに至りませんでした。

    西宮市のSより

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